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【ROMA留学エッセイ番外6】欧州における世界二次大戦の痕跡
 イタリアに住んでいて一度は気づく歴史のこと。今回は、少し重いけれど目をそらしてはいけない「戦争」について、語学学校の一場面から感じたことをエッセイにしました。前回の「海外のオタク組をオタク視点で」はコチラです。

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 通っていた語学学校で、生徒が四人だけの少人数クラスになったときのことだ。教室には、円卓を囲み日本人である私と、ドイツ人の女の子、トルコとポーランドの男の子がいた。

 皆ある程度イタリア語を理解して話せるメンバーのクラスで、同じひとつのテーブルを囲み普段のごとくイタリア語を学んでいた。講師はナポリ出身のおじさん先生。この先生は割合テキトーに授業を進め、勉強範囲が片付くと延々雑談をはじめるような先生だった。南イタリアの中で一番冗談好きな気質のナポリ人であるからか、授業は勉強第一というよりはイタリアらしいまったりした雰囲気で進んでいった。一般の学校の先生がこれではいけないだろうが、イタリア語を習うローマの語学学校である。文法の勉強も確かに大切だが、実際は雑談をしているほうが身になるのだ。ネイティブの言葉の使い方もわかるし、話を振られるわけだから自分の意見をイタリア語で話さなければならず、逆に頭を使う。

 この先生が、ある日ドイツの女の子と私を指差した。

「このクラスは、第二次世界大戦の枢軸が揃っているね」

 そして彼は、自分を指差した。まさにその通りである。第二次世界大戦の話を持ち出されると、少し気まずい。とてもナイーヴで、うまく説明できない話だからだ。日本がしてしまったことも私は知っているし、原爆や本土決戦のことも知っている。なぜなら私の母方の親戚はほぼ皆沖縄県におり、戦争の話は祖母などから聞いていた。戦争にまつわる慰霊碑も幼い頃から観に行っていた。原爆についてよく知っているのは、私が広島に二年間住んでいたせいだ。小学校で原爆について学ぶ機会があり、原爆資料館も何度も足を運んでいる。長崎にも同時期に旅行している。小学生の多感な時期に、第二次世界大戦の悲劇を叩き込まれていた。正直、今でも軽いトラウマになっている。

 しかしながら、それらが私に気まずい気持ちを起こさせるのではない。私よりもドイツの女の子のほうが、気まずい表情をしていた。なぜなら、同じテーブルにポーランド人の男の子がいたからだ。この戦争で最も犠牲者を出した国である。原因はナチスドイツの政策だ。そして日本はそのナチス側についた国だ。私たち二人が顔に見せた気持ちは、どこか似ているものだっただろう。

 欧州は、いまだに第二次世界大戦の惨劇がしっかり人々の胸に根付いている。少なくともドイツの人たちと膨大な犠牲者が出た国々は、今もあの非道な過去を忘れていない。私は日本から客観的にその歴史を学んだが、実際欧州に住んで、第二次世界大戦の傷跡が今も色褪せないと知った。

 その象徴的な日が、1月27日である。この日は、あまり日本では知られていないが「国際ホロコースト解放記念日」である。ヨーロッパではメモリアルデーといわれていた気がする。また、ヨーロッパでは一般的に、ホロコーストのことを「ショア(SHOAH)」と呼ぶ。私も、イタリアに住むまでまったく知らなかった記念日であり、呼び名だった。

 このことを知ったのは、マリナと一緒に暮らすようになってまもなくの頃だった。寒い一月の最終週の夜、映画好きのマリナと二度テレビで放映されていた映画を観た。『アンネフランク』と『戦場のピアニスト』だ。日本でも観ているものを、イタリア語で観た。……双方、ユダヤ人絶滅政策を題材にしている映画だった。

 他にもその時期のイタリア国営放送では、第二次世界大戦のドキュメンタリー番組がよく放映されていた。何も知らなかった私は、なぜここまで戦争に関係した番組が多いのか、家主のマリナに訊いたのだ。そして、彼女からこの週が「国際ホロコースト解放記念日」だと教えてもらったのである。イタリアでは、毎年一月最終週にホロコーストにまつわる番組が多く放映される。過去にあった残虐な事実を、忘れないように何度も放映している。日本で8月になると戦争にまつわるドラマやドキュメンタリーが増えるのと似ている。

 語学学校でも戦争の話になると、かならずクラスに一人いる生徒のドイツ人が何かしらの発言をしていた。印象では元西ドイツ出身よりも、元東ドイツ側出身のほうが、あの戦争を重く受け止めているように感じた。元東ドイツ側は、その後続いた冷戦から、より複雑な心情を持ち合わせているのだろう。一方、ポーランド人がクラスにいて、こうした話になっても、彼らは落ち着いているように見えた。しかし、第二次世界大戦時の何月何日に何が起きたかといったことは、しっかり覚えているようだった。忘れたくても忘れられないだろう。ポーランドの歴史は、調べれば調べるほど重い。言葉で言い表せないほどの悲劇と、それでも生きていこうとする国の力強さに感嘆する。

 一方で原爆のことを知っている欧州の人もいた。第二次世界大戦後、ナポリにアメリカ軍が常駐するようになった話を、語学学校の講師やマリナから聞いて、沖縄と一緒だと言ったこともある。
 ナチス、という言葉は、今もタブーな言葉であるかのように欧州にいると感じる。この三文字に内包されている意味の中身が、あまりにも重過ぎるのだ。皆あの悲劇を知っているから、言葉に出しにくいのだろう。日本の原爆のように、半分忘れ去られ世間にあまり出てこないものとは違う。ナチス関連の話題が社会にでてくると、欧州レベルで大事になる。一方でその重さに暗い魅力を持ってしまう人もいるし、ひどいと「大虐殺などなかった」という有り得ない主張をしている人もでてくるのである。

 忘れられることのない悲劇というのは、何度思い返しても悲しい。しかし、根深い重さが「戦争を繰り返さない」抑制力になっているのだとも思う。哲学的に話になるが、「ゆるす」という概念は、「ゆるされた瞬間に終わるもの」ではない。「ゆるす」という行為は、過去形ではなく、常に現在進行形の動詞なのだ。

 たとえで、被害者(ゆるす側)・加害者(ゆるされる側・ゆるされたいと願う側)という立場をつくるとする。「ゆるす」という行為は、被害者(ゆるす側)が「ゆるし続けるかぎり、ゆるされる」だけの話であり、被害者が「ゆるさない」と思い直せば、話はいつでもゆるされる前に戻る。おきてしまった事実に立ち戻る。加害者(ゆるされる側)は、被害者(ゆるす側)に「ゆるされた」からといって、してしまった行為を忘れてはいけない。「ゆるす」という行為は、加害者(ゆるされる側)が、自身がしてしまったことを忘れた瞬間に白紙となるからだ。

 つまり、加害者がゆるされたいと願うのであれば、被害者(ゆるす側)からゆるされ続ける大前提として、加害者(ゆるされる側)も自身のしてしまった行為を一生忘れてはならないのだ。それが、再発防止につながっていく。そして、被害者(ゆるす側)と加害者(ゆるされる側)が、それを他の人々に語り継ぐことで、他者たちも危機意識を持ち再発が防止される。「ゆるす」という行為は、そこまでしてようやく機能するのだ。完結はないのである。

 本当に「ゆるされた」という行為に完結する瞬間というのは、被害者(ゆるす側)がやられてしまったことをすっかり忘れたときだが……通常、やった側よりやられた側のほうが覚えているものである。真に「ゆるされた」となるのは、とても難しいことなのだ。

 戦争が起きた事実と目を覆いたくなるほどの凄惨さは、戦争を知らない世代であっても、語り継がれたものとそのときに感じた衝撃を、胸の中に残し続けさせなければならない。戦争の凄惨さを皆で生かせ続けなければならない。それが、悲劇を繰り返さない第一の抑止力になるのである。

 日本人にはこの感覚が薄い。戦争をしていた頃がまるで遠い。加害者であり被害者であった過去を、もはや過去として処理している。その点欧州は現在進行形で戦争(第二次世界大戦)と向き合っている。日本では戦争悲惨映画について大きな関心が寄せられないのだから、まず輸出するかたちで欧州あたりに売り込んで(カンヌ映画祭など欧州映画祭に主品する目的で毎年つくり、各欧州映画祭で日本の戦争で起こされた悲劇の映画を上映するだとか)、評価をもらって逆輸入するといいのかもしれないと思ってしまう。少なくとも、日本の原爆などに関心のあるヨーロッパ人はいるのだ。

 さて、第二次世界大戦時の枢軸三国がクラスに揃い、三人でポーランドの男の子の反応をうかがったが、彼は「今のポーランドは、だいじょうぶだよ」と当たり前の口調で言ってくれた。それに三人でホッとしたのだ。どちらにせよ、こういた経験を繰り返して、ドイツ人の第二次世界大戦にまつわる発言よりも、ポーランド人の多くは語らない微笑と沈黙のほうが、私には心に強く響いたのである。

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by gosuiro | 2012-08-13 23:15 | ROMA留学エッセイ | Comments(0)


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